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この夏、海外旅行に3回行って徹底的に遊ぶことの価値について考えた
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- ジャバ・ザ・ハットリ
これからの時代において「徹底的に遊ぶことの価値」は高まり続けるので、とにかく遊ぶべきと考えた。それでこの夏、海外旅行に3回行った。
この夏の計画
- ロンドンで 1 週間、旅行する
- 家に帰って 2 週間、仕事する
- ベルギーに 5 日間、旅行する
- 家に帰って 1 週間、仕事する
- イタリアに 1 週間、旅行する
とりあえず単純に楽しいし「海外旅行は年に1回」なんて発想にはまったく意味が無いな、と。
海外旅行なんて何回やってもいいものはいい
これまでは海外旅行はだいたいシーズンごとに行ってて、多くても1シーズンに2回とかだった。でも人生なんて短いし、周りを見てもいっぱい遊んでる人の価値がどんどん向上しているのを感じて、「ぼけーっとしてると確実に損する」と危機感を感じて連続してでも海外旅行に行くことにした。
やってみて思うのは「海外旅行なんて何回やってもいいものはいい。行ける時にはとにかく行くべし」と。まず国境を超えて移動すれば出会う人、見える風景、食べる食事やらが全て違うし、単純に楽しい。海外旅行の楽しさは何にも代えがたい。
楽しいことを知ってる人の価値
職場の同僚のスウェーデン人プロダクトマネージャーの C は海外経験が豊富で陽気な男だ。職場にいてもいつもなんか面白そうなことを見つけて、しょうもない冗談を言って笑ってる奴だ。その C はヨーロッパの国の隅々まで旅行していて、各国の事情にやたらと詳しい。どこの飯が美味いとかビーチがキレいとか、各地で何が楽しいのかを熟知している。
楽しいことをいろいろ知っている C には人がたくさん集まっている。いわゆる人気者みたいな感じだ。 「C と一緒に居たらなんだか楽しい」と誰もが思ってそう。それは C の遊びに関する感度の高さが機縁している。
遊びに関して重要なのは知識量ではなく感度の高さだ。どこに行けば楽しいか、何をすれば楽しいかを把握するのは意外と難しい。そこは行動力でカバーするしかなく、どんなにネットで知識を仕入れてもあまり効果はない。なぜなら「楽しい」というのは受動的ではなく能動的な感情だからだ。動きもしないでじっと座ってスマフォのディスプレイを眺めているだけの人からはこの感覚は生まれない。
その逆に行動しまくって感度の高まっている人にはさらにまた情報が入るし、なにより「あっ!あそこに行ってこうすれば絶対楽しいはず」というような勘が良くなる。例えば「予算**円以内でヨーロッパのどこかに行って、そこで楽しく過ごすにはどうすればいいか?」って課題が与えられてピッタリの企画が生み出せる人はそこまで多くはない。そもそも知ってる場所がロンドンやパリなどの有名な大都市だけってなると、ググることすら困難になる。
前述の C に関して言うと「彼の当たって砕けろ精神」はすごい。とにかくどこでも行くし、挑戦するし、異性に対していもまず声をかける。結局それが回り回って圧倒的な C の遊び経験値になっているのだろう。
面白いことがない、の解決方法
面白いことがない、という人は多い。しかしそこまで心配はいらない。動いてなければ面白いことなんてなかなか無いし、その解決方法はただ単に「動けばいいだけ」だからだ。
同じ場所で動かずにずっと居たら「どこか別の場所の楽しいこと」なんて分からなくて当然だ。情報のアップデートはできないし、会う人は同じ人達になり、つまらない生活のルーティンを自ら固定してしまうことになる。面白いことに出会えないのは、当たり前だし、だからこそ感受性が低下しているのだ。その解決方法はただ動くこと。
全ては行動を重ねること、移動を繰り返すこと。珍しい場所に行って面白い体験して、そこで脳が活性化され、また次の「面白そうなこと」に出会い、雪だるま式に増えていくのだ。この雪だるまを大きくするには最初は小さくても動かさなくてはいけない。
ドイツで暮らす前はシンガポールに6年ほど暮らしていて、その時は東南アジアを徹底的に回って旅行した。 わりと東南アジアであれば隅から隅まで旅行し尽くしたかな、と思っていたが、やはりそういう楽しいことには限界がなく、動けば動くほど楽しいことに出会う。
遊びにリミッターは必要?
今はヨーロッパを起点に回っているが、遊びにリミッターをつけるのは意味がないな、と気がついた。海外旅行は1年に1回だけ、とか1シーズンに1回なんてルールはどこにも決まってない。
先日、ロンドンに行ってからイングリッシュ・ブレックファーストのイメージがガラッと変わった。それまでの私にとってイングリッシュ・ブレックファーストといえば、ベーコンやら目玉焼きやらが雑に皿にのっててテキトーに食うどっちらけ朝食、という印象だった。
しかしロンドンのとある「美味いイングリッシュ・ブレックファーストの店」に行って、その概念は払拭されてしまった。今までやたらと過小評価していたのはイングリッシュ・ブレックファーストのノリが理解できていなかったからだった。そのロンドンの店はいかにも「ずっとこの朝食やってきました!」って感じで、入った瞬間から雰囲気が楽しい。一緒に出てきた紅茶が不思議なぐらいに美味いし、他の内容についてもいろいろと「そうだったのか!」の連続だった。
結果的に「なんかイングリッシュ・ブレックファーストって雑だけど食ってて楽しい!」となった。私にとっては新しい発見だったのだ。 それをもし「ロンドン?イングリッシュ・ブレックファーストはもういいし、行かない」なんてやってたら、新しい発見はなかっただろう。
海外旅行するにもお金がない?
最後に「海外旅行するにもお金がない」なんて意見もあるだろうから、それに対して。海外旅行に限らずなにかの「面白そうなこと」をガマンしてそれを貯金残高の数字に変換することが本当に有益なことだろうか。確かにある程度のお金は必要かもしれない。しかしお金の価値はずっと下がり続けて、その代わりに遊びや楽しみ方を知る人の価値は上がり続けている。
前述の C にしても彼の周りにいつも人が居るのはどう考えても C の遊び感度の高さだ。なんのためにお金があるのか、の答えは人生を楽しく有意義に過ごすためだろう。
お金を貯めまくってたくさん持ってる人なのに「面白そうなこと」を逃し続けていたら、「いい加減に貯金残高の数字を増やすだけの無意味な趣味をやめて、海外にでも行ってみんながどんなことを楽しんでるのか見た方がいいのでは?」と考えるだろう。その逆に、世の中にはわりとお金は無いのに持ち前の行動力でガンガン楽しい体験を重ねている猛者もたくさん居ることだし。
世界中を回って思うのは「面白そうなこと」を掴むための行動は年1回の海外旅行なんかではまったく不十分だし、楽しむことに本気でアクセルを踏む人達は今後もっと行くだろう、ということだった。
今こそ海外に行くことの価値
今のヨーロッパはどこに行ってもアジア人旅行者がほぼゼロだ。コロナによる出国規制と日本に関しては円安が主な原因になっている。こんな時はメディアも海外の面白そうな情報を流さない。そんなのがあったところで情報に対する需要が無いからだ。もう今のマジョリティのニーズは「海外に行くお金も機会もない。もっとこじんまりと気が紛れるような情報をくれ」になってしまっている。つまり情報もどんどん鎖国化しているのが今の状況だ。まさにこのブログ記事自体がそこまで需要がないだろうな、と思いながら書いているのだが。
多少の無理をしてでても今こそ海外旅行をするべきと思う。なぜなら情報の価値は希少性で決まる。誰も行かない海外だからこそ今の海外から得られる情報の価値は高まる。そんな情報は後で何倍にもなってあなた返ってくるのではないか、と。